はぐれ道

桑原康雄先生2
商大マンドリンクラブ50周年記念誌(2000年1月発行)より


 両親や親戚は当然の如く大反対でした。神戸商科大学在学中、これが弾き納めとして開いたリサイタルが、ある評論家の目に止まりプロの道へと誘われました。もう就職先も決まった卒業年の1月のことでした。
 当然の如く悩みました。多くの方々にも相談しました。もちろん自分の音楽への才能は全くの未知数でしたし、師事していた比留間先生までもが他の職を持ちながらマンドリンを続けた方がよいと言われる。それでもプロへと決心したのは、当時はまだプロの演奏家が数えるほどしかいなく(業種としての将来性)、また自分自身が当時のマンドリン音楽に非常に懐疑的(革新創造を通じての達成感)であったと言えるかも知れません。とりわけ「本当のマンドリン音楽とは何か」は今でも僕の命題ですが、これを本気で考えていました。
 当時の僕に大きな影響を与えたのは「ウィーン新古典派」でした。なかでもA.ウェーベルンの音色への考え方は僕の心に大きなウェイトを占めました。狂ったように彼の管弦楽曲を何度も編曲したものでした。今思えば、これが僕の作曲家としての原点かもしれません。現代音楽から勉強するなんて音楽大学生であれば退学ものです。

 入社式直後に直属の上司に退職願いを出し(某住宅メーカーでしたが…)、かくして僕のプロとしての下積み生活が始まります。このとき両親には一年の期間猶予をもらいました。つまり一年経っても食えないままのプロであれば(これはもはやプロとは呼べない?)即、別の職探しとなるわけです。
 親には悪かったのですが、実はこのとき既にある程度のことは計算が出来ていました。つまり学生時代から指導していました親和女子大学(現神戸親和女子大学)のマンドリンクラブからすでに何人かの門下生がきていたのです。もちろんこれだけでは自分一人の食い扶持もありません。午前はマンドリンの練習、午後はタクシーの調査員のバイト、夜は楽器店でのレッスンもしくは作曲の勉強という生活がかなり長く続きました。

 ある日、講師である比留間先生から独奏コンクールに出てみないかとお誘いがありました。コンクールの怖さを知らない、生意気な僕は二つ返事で受諾しました。カラーチェの「第5前奏曲」を自由曲に携え、関西での予選はトップで通りました。半年後の名古屋の本選でも、先生も僕も第1位、悪くとも入賞はかたいと信じていました。ところがです、自分としては決して悪くない演奏だと思っていたのですが選に洩れたのです。信じられなかった。
 このとき、初めて大きな挫折感を味わいました。それはそれまでの人生になかった大きな屈辱感です。部屋で一人になって悔し泣きをしたのを昨日のように思い出します。
 このこともあって、現在内外のコンクールの席では若い才能を決して見過ごさないというモットーで審査に臨んでいます。
 とある街角で本を探していると、路上営業の易者からいきなり声をかけられました。無料でいいから手相をみてあげると言うのです。なんでも「あなたは将来、外国と関係が深くなる」とか「あなたの人相には対人関係が苦手と出ている」と言うのです。後者のほうは当たっているなと内心ではドキッとしましたが、前者には全く心当たりがありません。もしあるとすれば、将来外交官になりたく某国立外語大学に受験し見事に失敗した苦い経験です。当時、留学などは全く高嶺の花、まして外国で演奏するなんて…。

 ところがこの二年後、まだ結婚前の1972年のことですが、はからずも故S.ベーレント氏のレッスンを比留間先生のご自宅で受けることになったのです。このとき弾いたのがバッハの「シャコンヌ」。全曲を終えたときのベーレント氏の「セイアー・グート!」の声は今も忘れられません。彼はすぐにドイツに来いと言いました。
 僕は内心では、これだけ情報量の多い時代に何も外国で勉強しなくても日本で充分ではないかと思っていました。事実これまでも多くの大家のレコードで演奏法を研究してきましたし、大作曲家のスコアなども買いあさり、習作に習作を重ねてきました。
 しかしこれは外国で勉強するに十分な経済力を持っていない自分自身への、無理矢理の納得だったかも知れません。こういうことは後で分かるものなのですが、当時の僕は小手先だけの音楽であったかと思います。ベーレント氏に褒めてもらった「シャコンヌ」にしても、僕の単なる可能性を示唆したものでしょう。

 同じ年の、卒業後の初のリサイタルでは「マンドリンの若獅子」などと評論されましたが、自分ではいまひとつ何かが足りないことを自覚していました。俗っぽくいいうならば、音楽が軽いのです。音の太さや、どっしりとした音楽解釈がまだ足らないのです。1975年の結婚を境に、僕はソロの分野と共にオーケストラの分野にも力を注ぐようになりました。自分の理想のマンドリン音楽を求めてアンサンブル・フィルムジカを発足させたのもこの年でした。また当時受け持っていた各大学のマンドリンクラブの指導にも力を入れるようになりました。親和女子大学、聖和女子大学(現聖和大学)、姫路三大学、神戸女子大学のためにずいぶん多くの編曲も手がけました。今でもそうですが、僕がクラシックや他のジャンルをマンドリンで演奏する場合、編曲によって原曲と同等あるいはそれ以上のものが出せなければ意味がないと考えています。学生のチョイスした曲をまずバラバラに分解し、土台を固め、各所に柱を埋め、原曲とはまた異なった造作をする。編曲とはまるで大工仕事のようなものです。それだけやりがいもあり、僕にとっては楽しい作業です。それに近頃はデジタル技術も進歩し、パソコンの音楽ソフトもずいぶん充実してきました。今は作曲も含め、ほとんどの編曲はコンピューターでやります。

「劇的で抑制の利いた幕開け!」
これは1982年のドイツ・マンハイムでのヨーロッパデビューの翌日の新聞の見出しです。このときドイツ在住の比留間門下の大先輩である越智さんの計らいで、なんと国際撥弦楽器音楽祭の開会式で弾くチャンスを得たのです。演奏曲は自作のマンドリンとピアノのための「ダイアローグ」で、全くの前衛作品です。
 全世界からのゲストたちを前に緊張しなかったと言えば嘘になりますが、何とか自分を出せたと思いました。この音楽祭の開催中、海外からの多くのプロデューサーが翌年以降のスケジュールを決めてくれました。自分で言うのもおかしな話ですが、本当に劇的なデビューが出来たと思います。

比留間先生と越智さんに感謝!
 この年以降、毎年海外を訪れリサイタルやマスタークラスを受け持つサイクルが出来上がりました。そうです、あの易者の予言が的中したのです。もしも名前や住所が分かるなら、今すぐにでもお礼を言いたいところです。

 神戸マンドリンソサエティ(現グループGEN)などのオーケストラも作り、さらに自分のマンドリン音楽に突き進んでいく一方で、気がつくと自分の母校である神戸商大マンドリンクラブとは疎遠な関係になっていました。これは多分に僕の比留間先生への遠慮意識がそうさせていたのかも知れません。プロ同士の暗黙の了解の中に、決して相手のテリトリーには入るべからずというものがあります。心のどこかで気にかけてはいたのですが、20回や30回といったOBの企画する記念定演以外ではほとんど現役と接する機会もありませんでした。今に思うと、僕のエラーかも知れません。卒業後5,6年以後10年を越える空白は取り返せるものではありません。しかし現在比留間先生の後を受けて母校を指導する中、内心のどこかであの空白の期間を埋めていこうという意識が働いていることは確かです。

 もう一人、私が多大に影響を受けた芸術家がいます。それは画家のW.カンディンスキーです。最初に彼の1914年作「即興」の絵を見たときに、何か後頭部からかかとにかけて一種の電流みたいなものが走ったことを覚えています。それは美術館の中ではなく、書店にあった彼の作品集からのものです。
 こんなにも人間の深淵を表現できるものなのか、本当にショックでした。
 それを機に彼の画集を片っ端から買い求めました。当時日本では倉敷の美術館にしか彼の絵がなく、暇を見つけてはそこで一日中眺めていました。また彼の著書、「芸術における精神的なもの」、「点・線・面」および「芸術と芸術家」の、いわゆる彼の三部作とされるものを読むうちに自分の考えと重なるところ、あるいは無尽蔵な芸術上の新発見をそこに見い出すことが出来ました。彼はオペラやバレーの舞台芸術に深く関与したり、自分の作品について多くの音楽的な比喩を用いたり、僕、いや音楽家にとって実に身近な存在といえる芸術家でしょう。僕の現代曲には多分に彼の影が投影されているかもしれません。ドイツに仕事に出かけるときには、ミュンヘンにあるバウハウス美術館(かっての彼の仕事場で、彼の作品が数多く展示)と例の「即興」が展示されているミュンヘン市立美術館によく入り浸っています。今まで実に様々な国に行きました。ヨーロッパが殆どですが、中でもスウェーデンは1983年以来25回以上は出かけていることでしょうか。これは僕の親友の一人、L.フォーシュルント氏と彼の最大の弟子、A.テキストリウス氏がいることにもよるのでしょう。(二人は拙宅に長期滞在した僕の弟子でもありますが…)

 また僕とスウェーデン作曲家協会やシュトックホルム交響楽団との結びつきも大きな要因でしょう。現地各所の演奏旅行やラジオ、テレビの収録など演奏会の回数は数え切れません。
 ドイツやスペインも大事な仕事場です。僕のほとんどの出版楽譜はドイツのフォクト社からのものですし、スペインのリオハ芸術協会では理事という役職も頂いています。
 またロシアの国際コンクール「北方杯」やドイツの国際マンドリンコンクールの審査員としても、それぞれ4年と2年に一度出かけます。因にコンクールの審査は本当に過酷な仕事です!(ロシアでは丸一週間、ドイツでは丸4日間、昼夜を徹しての審査です)

 また先の阪神淡路大震災の折にはドイツのK.ハリス氏(現在、ギリシャ在住)、オーストリアのE.ヤヌスカ女史、スペインのR.バリオ氏、オーストラリアのK.ジェンセン氏、アメリカのJ.アダムス女史、ロシアのT.フォルスカヤ女史(現在はアメリカに亡命)その他の友人が、国際電話やファックスで僕の安否を気遣ってくれました。K.ジェンセン氏はそのためのラジオ番組をメルボルンで制作。僕の拙作までながしてくれました。

 1989年から1997年までの9年間、僕は得難い体験をしました。それは奈良女子大学文学部で非常勤講師として、音楽史の講義を受け持ったことです。それもギリシャ時代からバロックの時代までの、通常はなじみの薄い時代の音楽歴史です。(音楽の原点を知ることが出来ると思います。)
 奈良女の学生は優秀だと前々から聞いていましたので、講義前日の予習は大変なものです。どんな質問が出ても答えられるよう、それは掘っても掘っても水の出ない井戸掘りのような勉強状態でした。90分の講義が終わると、くたくたになっていたのを思い出します。
 中には前日徹夜でもしたのでしょう、講義中居眠りをする学生もいましたが、そのときには教室の外でゆっくり眠りなさいと退出もさせました。それにレポート提出は多い、いつ質問されるか分からないわで、きっと煙たがられた教師だったと思います。
 それでも後期も終わりに近づき。テストの前にもなると、この講義を受けてよかった(ゴマすり?)と云う学生も少なからずいましたので、苦労が報われた気持ちになりました。それに大震災の直後、教室に入ったとき、学生たちからレトルトパックや菓子類などの非常食や日用品を、段ボール箱一杯で貰ったときには涙が出るほど嬉しかったものです。今でもときどき、学生たちの答案用紙を眺めては当時を思い出しています。

 現在、僕の拙作の中でもっとも世界で多く演奏されているのが「初秋の唄」です。ドイツ・フォクト社の集計によれば1996年の出版後この翌年と翌々年の売り上げのトップがこの曲だと聞いています。事実、海外から僕の手元に届いたCDだけでも10枚以上になる事が、これを裏付けています。曲は当初、僕が創設したマンドリンオーケストラのために書かれたものですが、後に僕の理想と反対の方向に進んだということもあって、楽譜からこのオーケストラの名前を削除したものです。俗っぽく云うと、いわく付きのものといえるでしょう。
 「初秋の唄」は日本の初秋の情景を描写したもので、人と自然の共生をスケッチしたものです。処女作からあります僕のこの作曲態度、つまり自然と人間のテーマは、とりわけ阪神淡路大震災後にはさらに強いものになりました。過日の第50回定演で神戸商大マンドリンクラブによって初演された「海の嬉遊曲」もしかりです。最近ではより自然に近いところに移住したいという思いが強いのですが、その反面遠きにありて思うもの、という見方もうなづけますので心は揺れます。ともあれ、自然=アポロ、理性、精神。そして人間=デュオニソス、感情、肉体。この構図がこれからも続くことでしょう。

 1992年から始めました「神戸国際音楽祭」は僕の長年の夢でした。
 これはそれまで各国の国際音楽祭に参加して、どうして先進国と云われる日本にこの類いの音楽祭がないのかという単純な疑問から生まれたものでした。それに各国でお世話になった多くの友人を日本に招待したいという思いもありました。
 果して、第一回の音楽祭では海外から7カ国、66人の音楽家が来日。日本を含めて総勢約200人の大規模なものとなりました。どれもこれも素晴らしい演奏で、非常にレベルの高い音楽祭でした。これもフィルムジカのメンバーや門下生たちのスタッフなしではとうてい実現し得なかったものです。マンドリンを始めとする撥弦楽器による4日間にわたる音楽三昧は本当にハッピーなものでした。このときほど音楽をやってきてよかったと思ったことはありません。幸せの絶頂でした。
 しかし一方では当然ながら経費はうなぎ登りで、言い出しっぺの僕としての水面下でのやり繰りには本当に苦労したものです。
 それでも、2年に一度の「神戸国際音楽祭」はなんとか順調に継続され、昨年には小幅ですが念願の黒字に転じました。現在では日本のみならず世界から注目される音楽祭としてのステータスも得、今後も多くの方々のご協力を得ながら、出来るだけ長く続けていきたいと思っています。
 このはぐれ道に入って、実に多くの得難い経験が出来たと思っています。本当にこの道に入ってよかったというのが今の偽らざる心境です。これには当然ながら、僕の誇れる家族の強力な支えがあったからこそで、感謝の言葉もありません。

 さらに、僕のこれらの活動の源泉は神戸商科大学マンドリンクラブです。入学時に先輩たちが僕をクラブに誘ってくれなければ、また初めてマンドリンに触れる僕を指導してくれなければ、今の僕の人生もなかったことになります。今僕はこれらの恩返しをするつもりで、我が母校・神戸商科大学マンドリンクラブを精一杯もり立てていきたいと思っております。



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